年金分割をしない私法上の合意については、無効説と有効説があります。
無効説は、年金分割請求権は、両当事者の婚姻期間の標準報酬を改定する請求を年金制度の実施機関である年金事務所に求める権利なので、公法上の権利を私法上の合意で否定できないから無効とします。(ネット上の言説は、無効説が大半のようです。)
有効説は、請求権を持つ当事者双方が、年金制度の実施機関に対する自らの請求権(標準報酬改定請求権)を行使しない合意であり、当事者一方の請求権行使を他方から制限する合意ではないから有効と説明しています。(多分、有効説でも、一方が請求権を行使した場合、差し止め・無効確認訴訟等は認められず、債務不履行による損害賠償請求権のみが認容されるという考え方のように思います。)
尚、家庭裁判所に審判や調停の申立てをしない旨の合意(「不起訴の合意」)をすることは可能です。
ところが、公序良俗に反しない限り、年金分割しない合意を有効として、年金分割の審判申立てを却下した裁判例である静岡家裁浜松支部審判平成20年6月16日審判(家庭裁判月報61巻3号64)を紹介・解説します。
「当事者の協議により按分割合について合意できるので、協議により分割しないと合意することができる。当事者間の離婚協議書に、離婚時年金分割制度を利用しない旨の合意があると認められるので、年金分割審判申立ては適法でなく、却下する。(従い、按分割合の実質的審理をしない。)」という内容です。
しかし、本裁判例は、標準報酬改定請求権の放棄や行使しない合意や、不起訴の合意を正面から認めたものではなく、この裁判例の評価は未だ定まっていないようです。
やはり、年金分割請求権の放棄ではなく、不起訴の合意を書面で規定する方向で解決すべきでしょう。
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事案の概要
- 1977年婚姻(2子あり。)
- 2004年:2006年度から地方公務員である夫が受領する年金について、その半分を妻が生活費のために分与する旨の覚書を作成するも、離婚する段になって、妻が「年金を欲しい」と云ったら、夫は「駄目だ」と云いだした。
- 2007年4月(*):次項の離婚協議書を連名で作成して離婚。(妻が下書きを作成し、夫にその通り清書してもらった上で、連名で作成。話し合った上で作成したので、当事者間には何のトラブルもなかった。
- 妻は、離婚協議書を書かないと離婚届に印を押さないと言われたので作成しただけで、離婚協議書で譲り受けた不動産は、夫の浮気の代償としてもらったもので、離婚の代償は何ももらっていない。2004年作成の覚書は、夫が受領する年金について、その半額を生活費として分与すると記載されており、年金分割についての合意がなされていると主張
(*)2007年(平成19年)4月:離婚時年金分割制度の施行月
本件の離婚協議書内容
離 婚 協 議 書
離婚に伴う財産分与は、次の条件とする。
一 ○○市○○○○番地○○ 敷地面積○○.○○平方メートルの土地及び家屋は、Aの所有とする。
一 現金1,500万円はBの所有とする。
一 平成19年×月より支給される共済年金は、全額Bが受け取るものとする。
年金分割制度によるAの取り分は、これを全て放棄する。
一 財形年金の受け取り分は、Aが半額を受け取るものとする。
A 印
B 印
裁判所の判断
- 離婚当事者は、協議により按分割合について合意することができるので、協議により分割しないと合意することができる。
- 本件においては、申立人と相手方の間には、離婚協議書に離婚時年金分割制度を利用しない旨の合意がある。
- このような合意は、公序良俗に反するなどの特別の事情がない限り、有効であると解される。
- 当該離婚協議書は、申立人と相手方が話し合った上で、申立人(A)が数日の熟慮期間をおいて下書きをしたことに基づいて作成されたもので、申立人と相手方の間に何のトラブルがなかったのであるから、この合意を無効とする事情は存しない。
- 尚、申立人は、2004年の覚書について主張しているが、同覚書は、離婚時年金分割制度が施行される前のものであること、離婚協議書においても、「財形年金の受け取り分は、Aが半額を受け取るものとする。」と規定されており、覚書の年金についての配慮がなされていることを併せ勘案すると、2004年の覚書を離婚時年金分割制度における合意と認めることはできない。
- 離婚当事者は協議により年金分割をしないとの合意がすることができるので、本件当事者間の離婚協議書における合意には、無効とするような事情がなく有効であり、申立人の申立を却下する。
コメント
年金分割請求権は、両当事者の婚姻期間等における標準報酬を改定する請求を年金制度の実施機関である年金事務所に求める権利で、離婚相手への請求権ではなく公法上の請求権なので、年金分割をしない旨の合意は無効との言説がネット上では多数ですし、小生もほぼ同意しています。
一方、家庭裁判所に審判や調停の申立てをしない旨の合意をすることは有効で、不起訴の合意と呼ばれています。
本件は、「年金分割制度によるAの取り分は、これを全て放棄する。」との条項を按分割合の合意、すなわち、情報通知書に記載されている下限値で合意されていると見做して、既に按分割合の合意があるので、按分割合について再度裁判所に判断を求めるのは、不適法とみて申立を却下したと思われます。
しかし、標準報酬改定請求権の放棄や標準報酬改定請求権を行使しない合意、不起訴の合意などを正面から認めたものではなく、この裁判例の評価は未だ定まっていないように思います。
やはり注目すべきは、離婚協議書の時期は、離婚時年金分割制度が施行された月だという事実でしょう。現在でも十分に理解されていない離婚時年金分割制度を当事者が十分に理解していたかどうかは大いに疑問とする所です。Aの錯誤により合意無効としたり、当事者間の財産分与の程度が公平になっていないとして年金分割の合意を無効とする余地もあったように感じます。